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[電子書籍]老子の教え あるがままに生きる

[電子書籍]老子の教え あるがままに生きる

電子書籍
価格: 1,200円(税込)
フォーマット
紙の書籍
電子書籍
紙+電子書籍セット
価格
1,620円
1,200円
2,220円
個数:
  • メーカーディスカヴァー
  • 発売日2017.6.9
  • ISBN978-4-7993-2115-7

商品概要

あなたの道に従いなさい。
「東大話法」批判の安冨歩教授が五年の歳月をかけて取り組んだ渾身の「老子」新訳!

商品説明

斬新な解釈が大反響を呼び、中国語や韓国語にも翻訳された『超訳 論語』。その著者・安冨歩東京大学東洋文化研究所教授が、今度は「老子」に挑んだ。五年の歳月をかけ、数多く存在するテキストの吟味と綿密な解釈とを経たうえで、可能な限りわかりやすく現代語訳したものが本書『老子の教え あるがままに生きる』だ。

二千数百年前に書かれた「老子」という書物は、具体的な人名や地名がまったく現れない、抽象的な議論に終始した内容であるにもかかわらず、長い年月にわたって東アジアの人々の思考の指針であり続けてきた。それはこの書物の内容の深さと広さとの証明である。また、欧米の知識人の興味を強く惹きつけ、そのキーワードである「道(タオ)」という言葉は広く流通している。世界全体を見渡せば、「老子」は「論語」よりもはるかに広く読まれ、大きな影響を与えているのだ。

「老子」がこれほど広く深い影響を与えた理由は、その抽象論が、単なる思考の遊戯ではなく、生きるための実践的意味を持っているからだ。その言葉を理解するための手掛かりは、本の中にではなく、私たちの生活の中にある。読者が、老子の言葉を手助けとして日々の困難を乗り越え、それらの経験によって言葉の意味を感じ取る、という過程が積み重ねられ、「老子」は二千数百年にわたって読まれてきた。

「老子」の思想の根幹は、その動的な世界観にある。つまり、世界のいかなるものも、動かないものとしてではなく、生まれ、変化し、滅ぶものとして理解する。そしてそれを、固定した動かし得ないものと思い込んでしまうことの危険性を、さまざまな角度から指摘し、粘り強く繰り返し、叱咤激励する。一度言われたらわかるようなことではなく、繰り返しさとされなければ、私たちの中に入ってこないからである。そうすることで読む者は、ここに込められた知恵を、生活の中で把握し豊かに生きる道を見出すことができるようになるのである。

目次

序文

自らの内なる声に従え。
ただただ生きればいい。
最高の善は、水に似ている。
成果を挙げたら、身を退けよ。
身体と精神を調和させよ。
わかったつもりにならない。
見えない次元の真理に触れる。
世界をありのままに見る。
無理をしてもうまくいかない。
曲ったものこそが完全となる。
明らかな道理に従う。
自分の本質から離れないでいる。
聖人は極端なことを避ける。
成果を挙げても、強者とならない。
兵器は不吉な道具である。
道は使い尽くすことがない。
有は無から生じる。
減らすと増えて、増やすと減る。
無為は有益である。
足るを知れ。
どこへも行かずに天下を知る。
道はおのずから尊い。
不変の真理を身にまとう。
大道を行く。
無為無事によって天下を取る。
災いは福、福は災い。
飾らなければ、人々は従う。
小手先でひねくり回すな。
大きいものは下に立つのがよい。
人はそれぞれの道に従う。
執着しなければ失わない。
大物は空気を読まない。
天とうまくやる。
嫌々ながら戦う者が勝つ。
私の言葉をわかる人はいない。
天道は常に善人とともにある。

解説
 『老子』のテキストも解釈も一つではない
 「大器」は完成しない?
 第一章の重要性

著者からのメッセージ

  もしかするとあなたは、
  目の前にあるものごとを、
  確かにそこにある、と思い込んでいるかもしれない。

  しかし、
  どんなに避けがたいと、あなたが思い込んでいることでも、
  やがて消え去り、あるいは変化する。
  どんなことでも、どんなものでも、いつもどうなるかわからない、
  開かれたものとして、そこにある。

  ものごとは、変化し、
  生まれては滅ぶのが、その本質なのだから、
  そのあやうさをおそれる必要はない。

  それどころか、
  あなた自身が、可能性に満ちたものとしてあることを理解すれば、
  あなたは、意味のわからぬ不安から解放されるはずだ。

  もしかするとあなたは、
  ものごとと、その名とのつながりが、
  確かなものだ、と思い込んでいるかもしれない。
  「イヌ」は「犬」を意味すると、当たり前のように考えるかもしれない。
  あなたの名が、あなた自身を意味すると、
  当たり前のように考えるかもしれない。

  しかし、
  言葉の意味は、常に、ここで生まれ、あそこで消えるものである。
  それは、いつもどうなるかわからない、開かれたものなのだ。

  言葉に縛りつけられてもいけないし、
  言葉を縛りつけてもいけない。

  あなたが何かにおびえているとしたら、
  それはただ、ものごとの名におびえているだけではないだろうか。
  あなた自身が作り出した名に、おびえているだけではないだろうか。
  そのことを理解すれば、
  あなたは、意味のわからぬ不安から解放されるはずだ。

これに対応する原文は次の通りである。

  道可道也、非恆道也。
  名可名也、非恆名也。

たった十六文字をこんなに引き延ばしているのは、いくら何でもやり過ぎというものであろう。なぜこんなことをしたのかというと、ここが『老子』を一貫して読むための基礎となる、と考えているからである。そのことを説明しておきたい。すでに述べたように本書は小池の校訂したテキストに大きく依拠しているが、そこではこの箇所が次のように訳されている。

  道は言葉に表現できれば、恒久の道ではない。
  名は名付けることができれば、恒久の名ではない。

この読み方はほとんどの著者と同趣旨である。これは「道可道也、非恆道也」と切って読んでいて、「可道」の「道」を「言う」と解釈している。そうして「道可道」を「言うことのできる道」と解しているのである。道というものは、いわく言いがたいものであり、もしそれを言葉で表現できるとしたら、そんなものは「恆道」つまり、恒久の道ではない、というのである。

しかし私はこの読み方に納得できない。なぜなら、三回出てくるうちの真ん中の一回だけ、「言う」と読むのが不自然だからである。それは、二句目の「名」が、三回とも同じく「名」という意味を保ちながら、名詞、動詞、名詞として使われているのと比べると、奇妙とさえいえる。それに、道というものが「恒久」のものでありうるなら、それは言葉で表現できるような気もする。

すでに紹介した玄宗御注本という注釈書は、唐の玄宗皇帝自身によるとされるのだが、これはかつて非常に権威のある本であった。玄宗の解釈は、現代の通説とは大きく異なっている。この注釈書では、

  道、可道、非常道
  名、可名、非常名

と切って読む。「也」がなかったり、「恆」が「常」になっているのは、テキストの微妙な違いによるものである。そして、

  道というものは、可能性に満ちた道であり、常にどれか一つの道ではない、
  名というものは、可能性に満ちた名であり、常にどれか一つの名ではない、

というように解釈する。私はこの玄宗皇帝の意見が正しいと思うのである。こう読めば、「道」も「名」も、三回とも同じ意味の名詞となる。そして、この見解に立つと、この冒頭の二句は合理的に理解できる。

まず「名」の方が簡単である。たとえば「イヌ」という名が犬を意味するというのは、たまたま私たちが日本語の話者だからであって、現代の中国語では「ゴウ」という名が犬を意味する。ちなみに漢字は「犬」ではなくて「狗」である。日本語でも「イヌ」には色々な意味があって、「権力のイヌ」といえば、犬のことではなくて、権力者に迎合してその意向を忖度して行動する人物を指す。そういうわけなので、一つの名が一つの何かを常に意味するわけではない。

そうすると「道」とは何を意味するのであろうか。「名」と対立するのは名が指し示す「モノ」である。「イヌ」という名についていえば、犬がそうである。そうなると「道」は「存在」を意味することになる。そうだとすると、最初の八文字は、「存在は、可能性に満ちた存在であり、常にどれか一つの存在ではない」ということになる。

とはいえ、「道」が「存在」だというのは、飛躍しているように見えるかもしれない。しかし、道とはなにかというと、それは第四二章に示されているように、世界を世界たらしめている根源的で普遍的な作用、のようなものであり、そのように解釈するのが通説である。それゆえ、その道の働きが具体化したものが「存在」なのであるから、これもまた「道」である、と見てよいのではないか、と私は考える。

逆にもし、道と存在とを切り分けて、道は常なるものだとすると、存在の背後に恒久的な道がある、というような話になるが、これはヨーロッパの伝統的形而上学、特にプラトンの「イデア」論と同じ構造になる。それでは、「道(タオ)」の思想が欧米の知識人に衝撃を与えてきた理由がわからなくなってしまう。

こういう理由で私は、「道」と「名」とが対立した形で取り上げられているのだ、と理解する。そして私は、『老子』の全体を、このような考えに基づいて一貫して読むことにしたのである。

これは、単に『老子』を読むためにそうしているのではなく、そのように世界を捉えるのが正しいと考えているからでもある。そういう世界観から出発して、すべての知識を再構成することで、現代の学問が陥っている閉塞を打ち破り、私たちの直面する諸問題を解決する糸口が得られるのではないか、とさえ考えている。

私が本書を書いたのは、このような世界観の根底的変革に、読者の参画を希望するからである。
(「解説」より)