商品詳細

超訳 イエスの言葉 エッセンシャル版 

超訳 イエスの言葉 エッセンシャル版 

紙の書籍
価格: 1,080円(税込)
フォーマット
紙の書籍
価格
1,080円
  • メーカーディスカヴァー
  • 発売日2018.12.27
  • ISBN978-4-7993-2408-0
  • ページ数154P
  • サイズ文庫サイズ・ソフトカバー / 重さ175g

商品概要

「敵をなくす一番の方法は、敵を愛することだ」
『超訳 イエスの言葉』が文庫サイズのエッセンシャル版で登場!

商品説明

2000年前、ローマ帝国支配下のパレスチナ地方に現れて、圧政と宗教の束縛、貧困に苦しむ人々に愛と赦しを説いた一人の男、イエス。彼は実際に何を語ったのか?

「敵をなくす一番の方法は、敵を愛することだ」
「今日は今日で精一杯のことをしたのだから、それでいいじゃないか。自分の一日の働きに満足しよう」
「きみが愛するべきなのは、きみが好きな人だけじゃない。関わってくるすべての人だ」
「食っていければ、それでいいのか? きみが生きるために必要なものは何だ?」

※本書は2017年7月に小社より刊行された『超訳 イエスの言葉』から152篇を厳選し、文庫エッセンシャル版として再編集したものです。

著者インタビュー

  • 本書は、信仰の本ではない。キリスト教の本でもない。聖書を数十年かけて読んでいる人ならば、そのことがすぐにわかるだろう。ただ、イエスという一人の男が口にした言葉を書いてある。もちろん、その言葉の一部はキリスト教が聖典と認める新約聖書に記されている。

    ただし、本書にあるイエスの言葉は新約聖書につづられたままではない。つまり、いわゆる「超訳」されている。しかも、私自身による解釈をメインにしたという意味での超訳なのだ。その意味で、本書は私を通して語られたイエスの言葉でもある。だから、私自身の聖書解釈が濃く滲んでいることをまずことわっておく。また、イエスが現代の若者に対してならばどう語るだろうかというふうに編訳してもいる。


    ■ イエスの言葉を暗喩として理解する

    さて、キリスト教においては、イエスは「神の子」とされている。彼が「神の子」であるからこそ、処女マリアから産まれ、数々の奇蹟を起こし、誤解されて罪人扱いされ、十字架刑に処され、葬られても遺体が見つからず、天に昇り、復活を約束するのである。これらのことを事実、あるいは動かしがたい真実として信じることを約束したのがキリスト教徒である。個々人の信仰の内容はともかく、ヨーロッパに生まれたキリスト教の神学では神を客観的実在としている。その神の子がイエス・キリストとされる。

    私はその神学を鵜呑みにしない。なぜならば、聖書に記されているさまざまな奇妙な話や奇蹟といい、イエスという男の言葉といい、どうしても暗喩や隠喩とみなすことによってでしか意味がまともにとれないからである。つまり、実際に起きた事柄そのものを描写したり語ったりしているのではなく、それと類比される別の事柄、つまり人間心理や生き方を指し示す表現がなされている場合がほとんどだと考えるのである。
     
    一方、暗喩や直喩ではなく、聖書に記された事柄のすべてが歴史的事実そのものだというのならば、聖書はたちまちにしてわけのわからないヴェールに厚く覆われてしまうだろう。あるいは、矛盾に満ち、思想の整合性など微塵もないカオスになってしまう。そういうふうに聖書をとらえて嘲笑した書物も現在はある。ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』や架神恭介『「バカダークファンタジー」としての聖書入門』などだ。これらの著者に聖書が記された当時の習慣知識やユダヤ教徒の文化知識がなかったことから読み誤っている箇所を差し引いたとしても、現代人が何の予備知識もなくして聖書を読めば聖書は騒擾と狂乱に満ちたものに映るだろう。しかし、一般的に書物とはそういうものだ。読者は自分が現在のところ持ちあわせている知識と理解能力の範囲でしか本を読解できないのである。素直に意味がとりにくい表現があったとしても、だいたいこんなものだろうと勝手に類推してすませるのである。だから、読みとり方や感想が各自で異なってしまうことになる。

    しかしながら、「聖書は神が書いた本だから人間の理解がおよばないのも当然であり、その理解を手助けするのが神学や教会だ」という主張もあろう。しかし、そうならば、キリスト教は一種の密教になってしまう。また同時に、聖書という本を個々人が読むことに意味と価値がなくなってしまうし、本として聖書があることに意義すらなくなってしまうだろう。しかし、聖書が重要なものを含んだ本ならば、神学や教会という仲介者なくして、私たちに教えているものがあるはずだ。そして、それはこの世に生きるうえで重要な事柄であるはずなのだ。であるならば、私たち個々人が聖書を読み、そこから汲むことができるものが秘められているだろう。そうして私が聖書を読み、そこから汲みとったものを含めてイエスの言葉としたのが本書である。だから、新約聖書に記載されているイエスの言葉と本書でのイエスの言葉を読み比べていただければ、私が何をどう汲みとったかが明瞭にわかるだろう。


    ■ 正典だけでなく外典にもイエスの言葉を求める

    本書が参考にしている原典は一般的な新約聖書だけではない。外典(読み方はゲテンでもガイテンでもかまわない)と呼ばれているものも含んでいる。外典とは、新約聖書に含まれた27の正典文書からは除外された文書のことだ。これはアポクリファ(「隠されたもの」という意味)とも呼ばれ、キリスト教会は外典を「異端宗教の虚構」とか、「けがれなき者をあざむく文書」と見ている。キリスト教会が認める正典は次の四つの要素を満たしている必要がある。イエスの弟子であった使徒が書いたもの、あるいは使徒に由来し、教えが使徒的である。地域を問わず広く教会で受け入れられている。これまで典礼で使われてきている。キリスト教神学と整合性を保っている。つまり、キリスト教の伝統に沿っているかということと内容が神学と合致しているかどうかで正典か外典かが決められている。これはもちろん、キリスト教体制こそ聖書の文書の真偽を見きわめる権威を持っているという態度から来ている。

    私はそのように決めつけるのはおかしいと思っている。ブランド物の真贋はともかく、そもそもこの世で起きている物事の真偽などありえるはずもなく、ただ個人の生き方のみが物事を価値づけると考える。別の言い方をすれば、キリスト教徒だから正しいはずだ、あるいは正しくあるべきだというふうには考えない。評価のモノサシがどこかにあるはずだとも考えない。この地に生きる誰にしてもその人の生き方こそ価値を決めるものであり、外から客観的に評価づけられるべきことではないと思うのである。このように考える私は、正典とはされなかった文書の中にもイエスの真意を表した言葉が残っていると感じる。イエスその人の口から出た言葉でなくても、イエスの真意がいくぶんかでもそこに含まれていると思うのだ。そういう部分を外典から拾って、本書なりに超訳して表現しようと考えているのである。
    (「はじめに」から抜粋)